マルセ太郎 記憶は弱者にあり
森 正 編著 四六判・224頁・本体価格1800円+税
ISBN4-7503-1192-8

 

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Be動詞の哲学

<ところで、マルセさんはここ岐阜県中津川市の阿木中学校で、Be動詞を素材に中学生相手に哲学の授業をしたそうですが、その話を聞きたいですね。さっきみてきましたが、そのときの記念ということで、校庭の池のそばにマルセさん揮毫の碑「Be動詞への自信をもて」と、「BE」のオブジェが設置されていますが。>
 マルセ <はい、一年から三年まで一五〇人ほどの生徒に話しました。その話は『週刊金曜日』にも掲載されたんですが、森先生たちがさっき会った阿木中学校の元校長先生が在職中にぼくの「スクリーンのない映画館」をみて、昼間、時間が空いていたらうちの子どもたちになにか授業をやってくれないか、と。
 それでひき受けたんですが、まず、いまの子どもたちが追いやられているところは競争の社会なんですよね。その競争社会がいじめの根源になっている。その競争からはみでた連中が、いじめたり、いじめられたりしているわけで、そこでBe動詞の話をやったんです。「ぼくが中学校に入ったときに思ったんですよ。なんで英語というのは、I のばあい am、Youのばあいは are、She のばあいは is と、いちいち変わるんだ。本気に中学生を苦しめるためにこういう変化を考えたのか。なんで日本語みたいにすきっといかないのか」と。
 I am a boy. これをぼくらは日本語で「私は少年です」と習いました。それで、きみたちも「です」というふうに教わっているのかと聞くと、みんな「はい」と答えるわけです。変わってないですね、この五〇年間。ぼくが英語の先生だったら、ここでちがう。あれは、「です」といってはいけない。あれは、「です」ではない。It is a pen. 「それはペンです」の「です」は is ではない、と教えますよ。isというBe動詞は日本語にはないと教えるべきなんです。こういう教え方に、こっちから勉強して欧米の文化を知ろうとする姿勢が出てくるんですよ。だって、日本語にはないんです。Be動詞という存在を表わす概念は。日本はけっして単一民族の国ではないんですが、習慣も言葉もまあまあ全国で通用するから、単一民族と思い込んでしまっている。だから、「私は」とかの存在を示す必要がないから、存在を表わすことばがないわけです。
 I am は「私はいる」、You are は「あなたはいる」……、それで、あの有名なシェークスピアのTo be or not to be, that is a question. の、to be は「存在することは生きること」、そして、or not to be は「存在しないことは死ぬということ」というのがあるわけです。
 ところが、日本では存在という意識が弱い。それでなにをやっているかといえば、しょうもない競争ですよ。だれかと比較したうえでの競争をやらせる。このクラスでだれが一番か? と。この競争の最もいやらしいところは、必ず隣り近所を相手に競争させること。はるかに超えた人間とは競争させない。日本のスポーツ選手が一〇〇メートル競走で、アメリカの選手に勝つ気で競走しますか。勝とうなんてこと、はなっから考えていないじゃないですか。予選を通過すれば大万歳。じゃあどこに勝てばいいかというと、これが隣り近所の韓国に勝てばいい、と。せいぜい、アジアで一番になればいいというわけです。
 だから、いつか金メダルの数で韓国に負けて、年寄りたちは怒ったじゃないですか。「教育がなっとらん。根性がない。大和魂を思い出せ」なんて。そうやって煽って、競争に駆り立てていったんです。学校の先生も「自信をもってやれば不可能はない」とか、 「自信をもってあたれ」っていうけど、そんな自信はくそくらえですよ。そこから差別が生まれるわけなんだから。そこで私は、「Be動詞への自信をもて」という話をしたんですよ。「私はここにいる。あなたはあなたであり、彼は彼である」ということにたいする自信です。そこからさらに発展して「自己愛」の問題につなげていったんですよ。「自己愛こそ大切である」と。
 この自己愛ということばは、自分さえよければいいという利己主義と混同されやすいんですが、そうではないんだと説明したわけです。分かりやすく。そういう話が中学校一、二年の子どもたちにも通じたんですよね。「存在と意識」という一つの哲学の話なんですが。こういうことは珍しいといわれているんですけど、まあぼくにいわせれば、中学校ぐらいの先生だったらそのくらいのことを教えるべきだと思う。>

日本人の人権意識の弱さ

 マルセ<日本の社会について議論するばあい、いい古されていることなんですが、日本は村社会のお上の国。これはもう厳然と生きてるんですね。ですから、国民は人権というものを、なにかやさしい支配者がいて譲ってくれたみたいな理解をしているんですね。おまえたちに人権をやると。それは、あたかも障害者に福祉予算を組むのと同じなんですね。ここは苦しいけど、まあいいや、これだけの金でおまえたち気の毒な障害者を救ってやる……というわけです。
 人権というものを考えるときに、ぼくはまず基本的に、権力者、あるいは権力につながっている高級官僚は全部悪いことをしている、という考え方を立てます。だから人権は守らなきゃならんと、権力をもった人たち、それにつながっている人たちにたいして憲法は厳しくいっているんでよ。
 でも、そうはいったって、憲法は外国からもらい受けたものでしょ。民主主義もみんな、たたかいとったものじゃない。そこで一般市民のなかには、たとえば、「警察のやっかいになるやつは悪いやつだ」という考えがある。だから、「少々ひどいことをやっても、それやらないと犯人が捕まらないんじゃないか」ということになるんです。そこから、「検挙率を高めるためには冤罪の一つや二つしょうがないよ」なんて考えが出てくるんですよ。
 とにかく、日本の大衆は、権力者にとって非常に物分かりがいいんです。自白だけで有罪にするなって憲法に書いてあっても、大衆の人権意識が低いから警察は喜ぶんです。人権というものをたたかいとったわけではないからですよ。自分たちの仲間がひどい目にあったという経験をあまりもっていない。だから、だれかが冤罪に遭遇して苦しんでいても、「そんなのは生かしておいたって大したやつではないから」なんて考えるんです。政治犯にたいしては、「なにもたてつかなきゃいいのに」となるんです。こんな大衆がいるあいだは、ぼくはとても希望をもてない。
 それから、もし人権をうんぬんする人たちがいたとしたら、簡単な質問をしたいですよ。「なんで代用監獄制がなくならないのか」と。拘置所が狭い? それなら建物を建てりゃあいいんです。それだけの予算は十分にある。代用監獄制度をやめることで冤罪がどれくらい減るか。こんなの簡単で、むつかしくもなんともない。しかし大衆はいう。「いや、それじゃあ犯人は捕まらないよ」って。そこで、もう一つ、さかのぼってぼくはあえて極論をいう。「犯人は捕まらなくてもいいんだ」と。そういうことではないかと思うんです。さっきぼくがいった色川武大さんと一致した話、ひどいことをやった誘拐犯人が捕まるなとぼくが心のどこかで願ったというのは、結局、そういうことなんですね。
 それから、もう一つ強くいいたいのは、愛国心は悪いものだということです。この認識がなきゃダメです。ぼくは、あえて憲法集会なんかでもいってるんです。「日本が愛国心の名のもとにいいことしたという事実があれば教えてくれ」って。悪いことばっかりやってきた。愛国教育がいいんだというのは、愛国心はいいものだという前提があるからなんです。でも、愛国心は悪いものなんです。愛国心が歴史的にいい方向に作用したのは、侵略された側においてなんですね。あのベトナムでさえ、アメリカに侵されていたときの愛国心は非常に正しく発露されたけれども、その後、逆の現象を起こしたではないですか。世界中、そんな歴史のくりかえしですよ。「愛国心は悪だ」「犯人は捕まらなくてもいい」そんな認識を強くもたなければいけない。そこまでいいきらないと、生半可なところで人権、人権という話になっちゃう。>

喜劇とは

 森<昨夜のマルセさんの舞台での喜劇論とは次元がちがいすぎるんですが、テレビで吉本喜劇なんかみてると、いわゆる身体の特徴をですね、禿げとかちびとか、そんなのを延々と笑いの種にして、それで食ってるわけですよね。やる者もみる者も、それを喜劇だと錯覚しているようで。>
 マルセ<そういうのは、比較の対象として悪すぎるんですよ。ぼくがあえて喜劇というのは、そういうレベルのものが対象じゃないんです。もっと高い。たとえば、藤山寛美さん。あの人、日本では代表的な喜劇役者といわれていたけど、あの人は人情劇だといってる。たしかに喜劇ではないんですね。その人情劇のなかにちょこちょこっと滑稽な場面があって、お客さんを楽しませている。もっと真面目に考えますとね、元来、日本には喜劇の伝統がないんです。たとえば、歌舞伎には喜劇がないんです。ただ、歌舞伎には滑稽な役者は出てくる。いわゆる三枚目ですよ。
 それで明治になって、われわれが喜劇と思いこんでいる芝居をその滑稽な役者たちがはじめたんですよ。曽我廼家五郎なんかです。その流れのなかに、藤山寛美さんの師匠である渋谷天外さんなんかがいたわけなんです。映画の世界でいえば、エノケン、ロッパなんかが滑稽役者なんです。つまり、滑稽なことというところに重みがかかってるんです。もちろん、その滑稽というのも喜劇の要素ではあるんですがね。
 昨夜ぼくが話したように、若いころ、ルイ・ジューの演技論を読んでよく分からんわけですよ。コメディアンたるものかくあるべし……、そういうことはコメディアンとはいえない……。読んでるとね、文脈からしてコメディアンというのはかくあるべきという俳優の姿という感じがする。ぼくらがいう喜劇俳優ではない。そしてステレオタイプ、表面的にしか演技できない俳優のことを、ルイ・ジューベは「アクトゥール」といってる。これは英語のアクターのフランス語読みでしょ。だから、おかしいことになるわけよね。俳優の演技論なのに表面的な演技しかできないのは俳優だ。何なんだろうと。そのころ、日本のエノケンだとか、アメリカだとボップ・ホープだとか、そういう人のことをコメディアンだとかコメディーといってた。あれ? この本はぼくが求めている本じゃなく、特殊なコメディアンの本か? でも、ルイ・ジューベはそういうコメディアンじゃないんですよね。読んでるうちに何年もかかってしまったんですがね。そういえば、フランスの代表的劇団であるコメディー・フランセーズ、あそこはたしかシラーの悲劇なんかもやってるわけです。いうところの喜劇じゃない。だんだん読んでいくとね、人間を典型的に表現することをコメディーといい、それを演じられる俳優をコメディアンというのだ、ということが分かってきたのです。
 それから、映画の「男はつらいよ」は、完璧ではないけど、喜劇としてかなり認められる。少なくとも、テレビでやってるお笑い芸人というのは、コメディアンじゃないんですね。そこで、コメディアンになるためにはどうあるべきか、ということになる。まず、人間を典型的に表現すること。そうすると、今度は人間への観察力というのが問題になる。観察力というのはどこから出てくるのか。ここで大切なのが思想なんですね。元来、伝統的に日本の芸能界では思想を排斥してきた。積極的にではなくとも。「わしら芸人や、余計な理屈はいうな。笑わしたらええんや。政治や社会の問題なんかめんどくさい。よそでやってくれ」。これが一般的やね。「政治には関心がありません」と。ところが、意識はしないまでもそういった連中は、結局は体制への援護的な役割を果たしている。なかには積極的な一分子になっているやつもいる。
 ということで、ぼくは喜劇の根底には批判精神が必要であると思ってるんです。少なくともコメディアンを自称する以上、体制的であっては矛盾するわけですね。だから、いまは自民党が権力をとってるけど、将来もし共産党が政権をとったとしたら、ぼくらはその共産党を批判する。そういうことなんですよ。>

(写真:角田 武)

▼マルセ太郎(まるせ・たろう)
1933年、大阪市に生まれる。54年、新劇俳優を夢見て東京に出る。マルセル・マルソーの舞台をみて感動、日劇ミュージックホールでパントマイムでデビューする。「コメディードンキース」や「スタミナトリオ」を結成して、浅草演芸場や全国各地のキャバレー、ストリップ劇場などをまわって芸を磨く。80年、サルの形態模写で人気を博する。

1984年、映画再現芸「スクリーンのない映画館」で独創的な一人芝居を開拓するとともに、話芸のジャンルを広げてマルセ太郎の世界を築く。90年代に入ってからは、マルセカンパニーを率いて演劇の脚本・演出でもその才能を縦横に発揮、知的障害者と健常者の共同生活を喜劇タッチで描いた「花咲く家の物語」は、全国各地で高い評価をえた。鋭い感性と豊かな知性にねざしたボードビリアンとして、「マルセ中毒患者」と自他称する熱烈なファンを生んでいる。

▼森 正(もり・ただし)
1942年、和歌山県に生まれる。名古屋市立女子短期大学に長期勤務していたが、同短大閉学により名古屋市立大各に勤務している。専攻は憲法学。

伝統的な憲法学にこだわらず、在野法曹論や知識人論にも関心をよせている。とくに、わが国における在野法曹の大先達である弁護士・布施辰治の足跡を追うことをライフワークとしている。

著書に、『治安維持法裁判と弁護士』(日本評論社)、『私の法曹・知識人論』(六法出版者)ほか。



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