『死刑百科事典』

リヒアルト・ゾルゲの項

Sorge, Richard (1895-1944)
ゾルゲ,リヒアルト

 アゼルバイジャン系のソ連のスパイ。第二次世界大戦の終結直前に、スパイ活動のかどで日本当局によって死刑に処せられた。
 1895年10月4日、カフカス地方、アゼルバイジャン共和国のバクー近くにあるアジケント(Adjikent)の村で、9人きょうだいの末子として生まれた。父親のアドルフ・ゾルゲ(Adolf Sorge)は、アゼルバイジャンで暮して仕事をしていたドイツ人の石油採掘技師であり、母親のニーナ・セミオノーヴァ・コビエレーヴァ・ソルゲ(Nina Semionova Kobieleva Sorge)はアゼルバイジャン系ロシア人であった。リヒアルトが生まれて3年たつと、アドルフ・ゾルゲはドイツへ戻った。
 こうして父親の母国で育ち、第一次世界大戦中はドイツ軍に入隊して戦闘に参加した。戦争が終った後、ハンブルク大学で政治学の博士号を取得した。すでに1917年の時点では社会主義者となっており、1919年にはドイツ共産党に入党し、1920年から1921年にかけては党誌『鉱山労働者の声』(Bergische Arbeiterstimme)に記事を書いていた。だが、1924年には、ドイツにおける共産主義運動は押さえ込まれており、ゾルゲはソ連へ帰った。すると、ソ連政府は彼のアジア人的特徴をスパイ要員として適当とみなし、中国へ送って、その地で共産主義者組織を作らせた。中国ではアメリカの新聞記者などを表向きの顔として、ソ連のためにスパイ活動を行った。1933年には、在外のジャーナリストを続ける条件を満たすためナチに入党すると、日本へ派遣され、駐日ドイツ大使オイゲン・オット(Eugen Ott)陸軍中佐の下で働く任務に就いた。日本からはほかに、『フランクフルター・ツァイトゥンク』(Frankfurter Zeitung)紙へ記事も送っていた。
 1939年、ドイツとソ連は不可侵条約を締結したが、ゾルゲは東京のドイツ大使館を通じて、ヒトラー(Hitler)が条約を破棄してソ連に侵攻する計画であることを察知した。だが、モスクワのヨシフ・スターリン(Iosif Stalin)は軍部の大粛清の最中であり、ゾルゲの警告を無視し、侵攻には備えなかった。1941年、ゾルゲはヒトラーが6月にドイツ軍部隊170個師団を動員してソ連に侵攻するバルバロッサ(Barbarossa)作戦を挙行する計画であることを知った。しかし、ゾルゲの警告は無視されたのである。ゾルゲによる報告よりも後の6月22日、ドイツ軍部隊はソ連に対し大攻勢をかけた。ソ連は備えに欠けていた。ゾルゲは日本帝国陸軍に直接スパイ活動を行い、日本軍がソ連極東地域よりもむしろ南太平洋の標的に向かって動いていることを報告すると、スターリンはこの情報を使って東部地域から主力部隊の配置を変更し、西部地域でドイツ軍と戦わせた。
 だが、ソ連軍部隊の動きは、味方の中にスパイがいることを日本人に察知させた。1941年10月18日、ゾルゲは、同じくソ連に雇われていた仲間のスパイ尾崎秀実に続く形で逮捕され、スパイ行為の嫌疑で告訴された。2人の男は死刑を宣告され、日本の監獄でわびしく暮らしたが、スターリンは彼らを救うために指1本上げることも拒否したのである。逮捕から3年たった1944年11月7日、ゾルゲと尾崎は絞首刑に処された。尾崎が先だった。彼が死んだ後、ゾルゲは処刑室に移された。
 ……尾崎と同じように、彼は最後まで平静に気品のある態度を保っていた。彼は市島らに感謝の言葉を述べて、死刑執行室に入っていった。絞首台に上がったゾルゲは最後の瞬間に、はっきりと日本語で言った(「湯田多聞のインタビュー」)。
 「赤軍」
 「国際共産党」
 「ソビエト共産党」
 しんと静まった死刑執行室に、彼の声は弔いの鐘の音のように響いた。
 食べ飲み呼吸することが人間にとって欠くことのできないように、神を信ずることを欠くことはできない。ゾルゲは神を否定していたが、彼は最後の瞬間になって意識の中に何か荘厳なものを感じたのであろう。そしてそれを彼自身の三位一体として、口に出したのであろう。そして、それを表現したのは、彼が子供の頃から覚えたドイツ語でもなかったし、青年になって習ったロシア語でもなかった。それは、彼がいつも口にするのを渋っていた日本語であった。ゾルゲの最後の言葉は自然に出たものでなくて、彼が意識して選んだものであった。彼は聞く人がそれを正確に理解し、彼が主義のために死ぬことを知ってもらうことを願ったのであった。
 ゾルゲはその言葉を三回繰り返した。それは彼が世界に別れを告げる言葉であった。それが終わると、彼の立っている床板は落とされた。時に午前十時二十分であった。
 それを見ていた湯田は、彼の言葉、態度、献身に深い感動を受けた。「ゾルゲの態度には見栄を張るようなところは何も見られなかった。彼は最後までその主義に生きたのであった。彼は祈るようにその言葉を繰り返した」と、湯田は回想している。
 生前に尾崎は彼の霊を運命にまかせて自由に発散させていたが、ゾルゲはそれをその体内に閉じ込めていた。しかし、今やゾルゲの霊は激しく息づき始めたのであった。
(千早正隆訳『ゾルゲ・東京を狙え下』原書房 1985年)
 1964年、ゾルゲはソ連邦英雄に列せられたが、それ以後、彼の名が思い出されたことはない。

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