序文(抜粋)
死刑は太古の昔から世の人々の好奇心を誘ってきた。縛り首や打ち首、火あぶりといった方法による公開処刑は近代以降になって多くの国々で禁止されたが、公開の処刑場にはおびただしい数の群衆が見物に集まるのが普通である。そして、民族国家が死刑を公式に開始する最初の規則集であった「ハンムラビ法典」(Hammurabi's
Code)が創出されて以来、死刑は常に議論の的となってきた。すなわち、成文法の歴史の最初から、国家の指導者たちは死刑の適用をめぐる議論に巻き込まれていたのである。イングランドの「征服王」ウィリアム1世(William
the Conqueror)はその在位中、死刑の適用に反対したが、その代わりに拷問を行わせた。彼は「どのような罪を犯そうとも、いかなる者も縛り首その他の方法によって死刑に処せられることを……われわれは禁じる。だが……その者の目をえぐり出し、足や睾丸や手を切り落としたりしてもさしつかえなく、このような形でのみ残りの身体が生きていくことは許されるのである」と書き記している。しかしながら、ウィリアム1世が処刑を命じた人々もあり、そのためにだけ、剣で首をはねる新しい形の処刑方法を考案した。この刑罰を最初に受けた人物はハンティントン、ノーサンプトンおよびノーサンバーランド伯爵ウォールジオヴ(Waltheof)で、1076年のことであった。
看守が手渡したドクニンジンをみずから進んで飲み下したソクラテスから、磔刑に処せられたイエスや、焚刑となったジャンヌ・ダルク(Jeanne
d'Arc)、断頭台にかけられたフランス国王ルイ16世(Louis XVI)、電気椅子で処刑された殺人者ウィリアム・ケムラー(William
Kemmler)、ガス室で処刑された中国人の殺人者ジー・ジョン(Gee Jon)、銃殺刑に処せられたゲアリー・ギルモア(Gary
Gilmore)、そして、さらに最近の処刑例に至るまで、諸々の国家や州政府は法を破った者に対して死刑を適用する権限を保持してきた。だが、これとは別に、法を破ったわけではないにもかかわらず死刑に処せられた人々もまた存在した。使徒パウロ(Paulos)や教皇・聖ステパノ1世(Stephanos
I)などといったイエスの信徒たち、およびその他、宗教上の信条のために迫害をこうむった人々が死刑の執行により殉教した。古代のイスラエルにおいては、死刑の宣告を受けた人々は石叩きの刑か、焚刑、絞首刑、もしくは斬首刑に処せられた。旧ソ連では、他の共産主義国家と同様、世論誘導のための公開裁判を行い、国家にとって好ましからざる人物や政敵、あるいは反体制派の人々を粛清した。ナチは第二次世界大戦の戦前および戦中に、ディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich
Bonhoeffer)や、ハンスとゾフィーのショル兄妹(Hans and Sophie Scholl)など何千人もの抵抗派の人々を、体制に反対したという理由で死へと追いやった。近年ではナイジェリア政府が世界中からの抗議の声に直面しながらも、オゴニ人(Ogoni)の人権活動家ケン・サロ=ウィワ(Ken
Saro-Wiwa)を、3名の部族指導者の殺害を企てたという口実の下に処刑した。だが、その企ての証拠はあったとしてもせいぜい乏しいものにすぎなかった一方、彼は自身が住むオゴニ人の自治地域でのシェル石油による環境破壊に反対する意見を表明していたのである。
死刑をめぐる論議は、ことにアメリカ合衆国においては、奴隷制や市民的権利、女性参政権といった国家の注意を引くさまざまな社会改革運動に関する論議に比較して立ち遅れていた。18世紀や19世紀に死刑反対を論じた人々は、変人や厄介者扱いにされた。20世紀の前半を通じて、死刑の反対論者が世論を動かすことはほとんどなかったが、1930年代には処刑数が減少し始めていた。1930年代の10年間には1667件の死刑が執行され、1940年代にはその数が1284件へと減り、1950年代には717件となった。さらに1960年から、各州が死刑の適用に中止期間を設ける以前に処刑された最後の人物であるジョゼ・ルイス・モンジ(Jose
Luis Monge)が1967年6月2日にコロラド州のガス室で死亡するまでの間には、わずか191名となっていた。そのように世論を死刑反対へと向かわせたのは、残忍な犯罪にもかかわらずその苦境により同情を集めた女性バーバラ・グレアム(Barbara
Graham)の1955年の処刑と、多数の人々が無罪、ないしは死刑宣告に値しないと考えた男性カーライル・チェスマン(Caryl
Chessman)の1960年の処刑であり、いずれも世間には広く知られるに至った事例である。1960年代までに、死刑に対する確固たる国民的支持は失われたのである。
連邦最高裁は、1972年のファーマン対ジョージア州事件(Furman v. Georgia)の画期的な判決において、死刑の宣告は恣意的とし、違憲であると判示した。これを受けた各州はその後数年にわたり、死刑に関する法令を憲法の基準に適合させる作業を行った。次いで連邦最高裁は、1976年のグレッグ対ジョージア州事件(Gregg
v. Georgia)の判決において、ジョージア州の形式が憲法の基準を満たすものであると判示した。しかしながら、死刑が再開されても、また、世論がすみやかな裁判の進行を求めても、処刑が連続するには至らなかったのである。すなわち、1977年のゲアリー・ギルモアの銃殺刑から本書の脱稿時までの間に、男性437名と女性3名のみが死刑に処せられたにすぎず、年間平均は約13名であった。ただし、この割合は拡大する傾向を示している。近年の最高裁の判決は、死刑囚による嘆願を制限しつつある。これまで処刑を実施したことのない州においても議会手続を開始しようとしており、ニューヨークのような死刑反対の砦であった州においても死刑を再開する法案が州議会を通過している。
死刑をめぐる問題と、その執行方法は常に筆者の関心を引いてきた。本書の執筆を開始する数年前から、筆者は幾度にもわたる国内旅行を通して、このテーマに心を留めながら新聞や書籍を収集してきた。また、本書の執筆のためイギリスへも旅行し、イギリス国家と死刑との関係を調査するとともに、受刑者の墓や処刑場を訪れている。同様に、合衆国内や、イギリス、オーストラリアおよびカナダの大学や図書館に付属する公文書館を利用し、文学作品にも識見を得た。これらの多くは世に出てから何百年もの歳月を経ており、世界中に散逸している。
なぜこうした血なまぐさい歴史とおぼしきものの前に立つかといえば、筆者には歴史それ自体のみならず、著名な人々がその中で演じた役割について関心があるためである。これが本書に著名な人々について記載している理由であるが、死刑を論じながら死刑に影響をこうむった人々を論じなければ、本書の価値が減じると思われたためでもある。筆者は死刑問題に強い関心を寄せるが、文章にはいかなる偏向も入り込まないよう試みた。もし何らかの偏向が看取されれば、当然ながら筆者は謝罪する。死刑の賛成論者と反対論者双方の伝記や文献も検証しているが、いずれの側にせよそれぞれの立場についての論評は加えていない。同様に、死刑の賛成・反対いずれの理由についても総括的な論評は行っていないが、個別の接近方法を検証した項目はいくつかある。多くの州で死刑を適用している理由や、なぜある人物が死刑を支持し、他の人物が反対するかという理由に関してはさほど多くは探求していないが、著名な支持論者と反対論者による立論は提示している。
項目の選定に用いた基準は単純なものである。すなわち、人物伝を通じて、世間に広く知られた事件について叙述することが筆者の願望であり、これを基準としたのである。キリスト教徒の殉教者は何千人とあり、大部分は焚刑によって処刑されたが、これらを多数取り上げることは冗長となりかねないため、若干例を選択するに留めた。他の項目に関しては世界史の上で重要な処刑の方法をことごとく網羅したが、詳細の不明な方法には筆者の注意を逃れたものもあるかもしれない。本書で取り上げるのは原則的に、死刑の当事者が法にのっとって処刑され、その処刑が国家により執行もしくは少なくとも裁可されたことになっている事例である。しかしながら、いくつかの例外も取り上げられ、その理由は本文で説明されるが、たとえば卓越した死刑の支持論者や反対論者、あるいはリンチの歴史などである。事実の誤認や解釈の誤りがあれば、筆者の責に負う。(後略)
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*訳者はしがきを読む
*「リヒアルト・ゾルゲ」の項
*「絞首刑」の項
*「電気椅子」の項
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